読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

『聲の形』の、髪の形

黒髪ロング

「どうやったら自分が昔より成長したって事を証明できるんだろう」(佐原みよこ)


koenokatachi-movie.com


  • 『聲の形』の、髪の形

 映画『聲の形』ではキャラクターが髪型を変えるシーンが散見される。

 「聲(声)」が西宮には聴こえないものであり、また他者の心の声という意味まで含んでいることに対し、「髪」は西宮にも誰にも同じように見えるものとして存在している。
 以下、映画と原作漫画の話が混在してしまうが、『聲の形』における髪型の変化についてまとめる。

 『聲の形』においてキャラクターの髪型の変化が頻繁に見られる理由の一つに、メインキャラクターである石田の家が理容室であることが挙げられる。

 石田と西宮、2人が出会うその前、西宮は母親から「男子のように強く育ってほしい」とベリーショートの長さまで髪を切ることを強いられる。偶然にもそれを実際に受けた理容師が石田の母親で、彼女は西宮の意思を汲み取り、ショートヘアに揃えるまでで切るのをやめてしまう。2人の出会いはこうして始まる。

 その後、高校生になって石田と再会した西宮は、髪を伸ばしている(転校し年月を経たことで直接的ないじめを受けなくなったこと、また結弦の一件(後述)から、髪型について母親からの干渉が弱まったと思われる)。小6で母親に強制されるまでは同じくらいの長さであったことから、おそらくはこれが西宮の望む姿(髪の形)と見受けられる。

 再会した石田と過ごす中で、小学校のクラスメイトや石田の友達など、西宮の周りに人が集まるようになる。そんな中、西宮はある日、髪型をポニーテールに変える。その件について気が付いてもふれられない石田は自分の勇気の無さを呪うが、西宮にとってもこの髪型の変化は石田の気を引くためのものであり、その時点での2人のすれ違いを示している。事実その後、西宮は自分の言葉で石田に想いを伝えるが、それが石田に伝わることはなかった。

 さらにその後、あるきっかけから小学校での事件が仲間たちに広まり、彼らと衝突したことで石田は再び孤立してしまう。それでも、そのぶんも西宮のために行動する石田を見て、西宮は自殺未遂を起こす。
 突然の事件の裏には植野に伝えた「私は私のことが嫌い」や、石田に伝えた「私といると不幸になる」といった想いがあったのだろう。事件後、西宮は植野から自分勝手な行動を責められる。
 石田に救われ、植野に責められ、一命を取り留めた西宮は、再び生きることを選ぶ。おそらくは石田が西宮を助けたときに思った「今度はちゃんと生きます」と同じような気持ちから。決意の証に彼女は自分で髪を結う。

 西宮については以上だが、他のキャラクターも髪型を変えるシーンが散見される。

 西宮がポニーテールにしてきたのと時期を同じくして、川合も普段の三つ編みをやめ、髪をおろしてくる。おそらく彼女にとっての武装であるそれも、「そこに特別な意味はない」というのを額面通りの意味に石田は受け取る。

 西宮の妹、結弦もかつて植野と同じようにストレートロングヘアであったが、母親に抵抗して西宮の代わりに自分が髪を切り、以来ずっと同じ髪型にしている。

 西宮の母親も、最後には石田の理容室で髪を切っている。これは小学校以来、謝る謝られるの関係であった両者の仲が回復し、自然な付き合いができるようになったことを示している。

 この通り、『聲の形』にはキャラクターが髪型を変えるシーンが散見されるが、それではこの作品における「髪の形」とはどのような位置付けにあるものなのか?

 「聲(声)」が西宮には聴こえないこと、また他者の心の声が聴こえないことが変わらない事実であり、その事実に対して向き合って生きて行かなければならないことに対し、「髪の形」はある程度自由に変えられる。ここまで見てきたように「髪の形」は変えられる。『聲の形』において「髪の形」とは、「自分の意志で変えられるもの」のメタファーとして機能しているように見える。

  • 植野さんかわいすぎ問題


f:id:mercury-c:20160925185342j:plain


 『聲の形』において「髪の形」が「自分の意志で変えられるもの」として、変えていない人物が一人いる。植野である。
 小学校の時、石田と同じくかなり直接的に西宮のいじめに関わっていた植野。高校で再会してからもたびたび対立を引き起こす彼女は、その髪の長さや髪質から見れば作中で最も「髪の形」を変えられるのにも関わらず、一切それを変える描写がない(正確には原作漫画では、中学時にばっさり切ってボブカットにしていた過去の描写がある。おそらくは石田のいじめに関わってしまった贖罪だろうか?)。

 「髪の形」を変えない植野には、変わらない想いがあることが思い当たる。

 一つは石田に対する想い。小学生の頃から石田が気になっており、高校になっても石田と島田との関係修復を図ったり、意識不明状態に陥った石田の看病で毎日付きっ切りであったり、誰よりも石田のために行動していた。
 もう一つは西宮に対する想い。小学生の頃、愛想笑いばかりで本音を見せようとしない西宮に対し、植野は拒絶の意志で西宮をいじめはじめる。高校でも直接にそれをぶつけたり、石田に負担をかける西宮を強烈に責めたり、植野は西宮のことが嫌いで、最後まで「好きになれない」「好きになりたくない」と変わろうとして変わらない想いを抱き続ける。

 植野のこの悩みは、いくら自分の意志で変えられるとは言え、過去の事実が事実としてある以上、人の気持ちには変わらない部分だってあることを示している。

 それは西宮の母親が石田に「あなたがいくらがんばってもあなたが小学校でしたことは変わらない」と言うのと同じように。そのことで石田が常に悩み自殺未遂まで起こしてしまうほどに悩むのと同じように。

 それでも西宮の母親と石田の関係が修復し、過去の事件から他人と向き合えないでいた石田がそれでも生きていくことができるようになったことと同じように、植野もいつか変わるのかもしれない。だから今は無理して変わる必要なんてない、と石田は植野に伝える。数年後、再会した植野は変わらずストレートロングヘアでいた。


 センシティブな題材を扱った作品だけに、『聲の形』は「障害」「いじめ」といった面から語られがちだが、植野さんがかわいすぎる映画・漫画でもあり、むしろ筆者としてはそちらを強く感じたことをここに記しておきたい。


www.youtube.com


 まずは映像から、同じ「黒髪」でも石田や結弦の髪と比較して、植野の髪は黒の濃度が高く鮮やかで艶やかであることがはっきりと分かる。

 漫画では「サラ」という擬音を伴い登場する植野の髪質は(もちろん他のロングヘアのキャラクターはこの擬音を伴わない)、映画ではゆっくりと繊細な髪のなびきを注視してしまう石田の主観視点から表現される。

 登場時のインパクトも大きい。数年ぶりに石田と出会った(見つけた)際、彼の目を惹こうと街でいきなり猫耳を付け出したり。石田を見つけてすぐに自転車の後ろに乗ったり。後に石田から「嵐のようなやつ」と言われるように、毎回唐突で強烈な登場をする。

 突然石田の家に乗り込んだり、久々に再会したバイト先に石田を呼んだりと。動き出せずにいる石田と西宮と対照的に、植野の石田を想うアクティブな行動と西宮に対するずばずばとした物言いは、視聴者に、おそらくは西宮にも、ひどく魅力的に映る。


f:id:mercury-c:20160925185316j:plain


 観覧車や病院で植野が西宮にぶつける怒りは、自分が高校生の頃にはできるできない以前に思い至らないレベルにあり、性格的にも立場的にも、おそらく植野が作中の子どもで最も社会経験を積んでいたように思われる。

 そんな植野も石田と西宮と再会し、彼女もまた何か変わろうと思い、それでも変われない葛藤を抱える。そんな植野は他ならぬ石田から「植野は今のままでいいと思うよ」という言葉(声)をもらう。

 粗暴な言動なのにがさつな印象は受けない美人で、大胆でストレートで、強く変わらぬ想いをぶつける植野。彼女を愛おしく想うとともに、こう思う。『聲の形』は黒ロン映画だったのだ、と。


 最後に、原作漫画には映画では削られた植野さん超かわいいエピソードやシーンが数多くあるので、映画『聲の形』を観て、「あれ? みんな障害とかいじめとか話してるけど、それより植野さんめちゃかわいすぎじゃね……」という感想を持った方がいれば、原作漫画も併せて読むことをおすすめする。


現時点でKindle版は1巻無料。2~7巻も20%ポイント還元。

『君の名は。』の腑に落ちなさについて

 『君の名は。』。なんとも腑に落ちない映画だった。観ている途中、美しさに心を奪われるシーンはいくつもあって(自然や高層ビルや星空、女子高生や女子大生の描写がそれだ)、あったが、やはり妙な違和感が残って、腑に落ちない。
 それは設定矛盾を突きたいわけではなく、個人の好みの問題とも違うはずで、もっと物語の中核に違和感がある。ただ観ている最中は「この話にそんな感想を抱くのは無粋だろう」と自分を諌めるような良い瞬間も何度もあって、そのどちらも正解で、なんか言い訳がましくなってきたんでとにかく書きます。



 『君の名は。』は田舎町に住む女子高生・宮水三葉が、自分の家や育った町に対する不満を抱き、「来世は東京のイケメン男子にしてください」と叫ぶところから始まる。
 そして不思議なことに、彼女の願いは叶ってしまう。東京の都心に暮らす男子高校生・立花瀧と入れ替わることによって――――。

 ここまでの流れは大々的に宣伝されているところであり、ぼくも知っていた。
 この後を、ぼくはこの不思議な体験を経て2人の男女は少し大人になる。別の人生を体験することで視野が広がり、今の生活を受け容れたり、あるいは飛び出したりするという、ジュブナイルとしてわりと有りそうな流れを予想していた。

 ところが2人の入れ替わりは突如止まり、2人もぼくも予期せぬ方向へ物語は展開する。入れ替わりの奥に大きな事件が隠れていて、瀧は三葉を助けるために必死に考え、行動する。

 ここで気になるのは、瀧の行動原理だ。瀧はいつの間に三葉のことをそこまで想うようになったのか、という点もあるが、それ以前に瀧がどういうやつなのかいまいちはっきりしない。三葉に比べて瀧側の物語はあまりに希薄ではないだろうか。

 父子家庭なのか母親の姿が見えず、ただそこにコンプレックスがあるようには思えず、建築や美術系に興味があるようだが、そのきっかけは分からず、バイト先の先輩が好きなようだが、その理由もはっきり明かされない。そして自分の人生に物語がないという空虚な不満、物語も、瀧には見えない。
 「瀧が三葉を助ける」というパートに来て、2人の入れ替わりという対等関係が、「瀧が三葉を助けてあげる」ように変わって見えたのが、どうも引っかかった。

 先輩とのデートの件など、三葉が瀧をサポートしてるシーンはそれまであっただけに、事件の比重が大きすぎて、奥寺先輩とのデート以降、2人が入れ替わりを経て互いに成長する(だろう)話から、瀧が三葉を助ける話に変わってしまったように感じた。

 ここで、事件において瀧の側も何かしら影響を受け、それが将来に繋がっていくなどがあれば、まだ2人の対等関係が維持されたはずだが、そういったことを描くにもやはり瀧側の物語が希薄であったように思う。

 そして、そもそも入れ替わりのきっかけとなった三葉の環境に対する不満はどうなったのか。三葉の家族問題は果たして解決されたのか? そこに三葉はどう影響したのか? それには入れ替わりの、また瀧の影響があったのか?
 父親に直談判するシーンにその答えがあったはずだが、肝心の部分が省略されてしまい、はっきりしない。
 同じように三葉が抱えていた田舎への不満と東京への漠然とした憧れも、大事件により有耶無耶に流されてしまう。

 瀧側の物語は始まりが見えず、ただ三葉を助けるという終わりは見えたが、三葉の物語は逆に環境不満という始まりはあって、それがどう解決されたのかが終わりが見えない。このあたりにどうもぼくの腑に落ちなさがある。

 最後に、この映画のタイトルが『君の名は。』であることについて。タイトルの話をしようと思う。
 極端な話、個人の識別キーなら「君の顔」でも「君のこと」でも「君のマイナンバー」でもいいわけで、そこであえて名を選んだのは、「名を呼ぶ」という行為に重要性を見出したからだろう。その通り、劇中には繰り返し互いに名を呼ぶシーンがあり、おそらく製作者の狙い通り、ぼくにも互いに名を呼びすれ違う2人が美しく映るシーンがいくつもあった。

 ただ同時に「名」と聞いてぼくが連想するのは姓と名のセットで、姓はイエのことで、だから三葉の家族問題がぼやけたまま、瀧の方は見えないまま、互いが名前を呼ぶシーンが来るのはいささか軽いように感じた。家族を飛び出し「姓」を捨てて「個人」として生きる、そういった選択があって名前だけを呼ぶならわかるが、そのへんが省略されてただ互いに名前だけを呼ぶことに違和感があって、瀧が三葉が相手の名前を呼ぶたびに、ぼくは腑に落ちないのだった。

今年の黒ロン:『みわくのあくま』

今週の黒ロン

(※忙しくて告知が出せませんでしたが、9月6日黒髪ロングの日にちなんだ、今年の黒ロン更新になります)


comic.pixiv.net


 『みわくのあくま』の上段世志子さんはクールな見た目に反してとんでもなくドジで、信じられないほど走るのが遅くて、運動神経も悪い。それでも、何をやってもみんなから好かれる彼女の悩みは、その何をやってもみんなから好かれてしまうことにこそあって、実はそれは幼いころ彼女にとりついた「魅魔」の仕業なのであった。


みわくのあくま (クロフネコミックス)

みわくのあくま (クロフネコミックス)


 世志子さんが好かれるのは何も男の子からだけではない。孫と祖父くらい歳の離れた教師からも、同性からも、鯉や熊といった人間以外の生物からも、果ては宇宙人からも、世志子さんはモテてモテてモテまくる。

 それは一見ハッピーなことのように思えるが、世志子さん自身はそのせいで、みんなの気持ちが信じられなくなってしまっている。常に周りを疑い、魅魔がいなければ自分が好かれることもないと、自らも貶めてしまっている。

 物語は世志子さんに魅了された少女・純が、魅魔を祓っても世志子さんが好きでいられればそれは本当に違いないと、その証明のため行動することで動き始める。純のアグレッシブな行動により、魅魔の影響で無理やり世志子を好きにさせられていた人たちが元通りになっていく。それを見て徐々に世志子さんの意識に変化が生じる。

 魅魔の有無に左右されない、2人の少女の絆が証明されることで、この物語は終わりを迎えるが、読んでいて思い出したのは栗山千明さんのことだ。

 12歳のとき『神話少女』という写真集を出した栗山さんは、さすがに世志子さんほどではないだろうが、熊からモテるくらいは普通にあり得そうな、怪しく危険な魅力を放っていた。

 現在はそれが落ち着いて女優としてモデルとして活躍されているが、それは彼女の魅力が失われたというわけではなく、人が生きることはある程度型にはまることであって、理解できないアンバランスな状態に対する畏敬の念のようなものが支えていたかつての栗山さんの魅力が、身体的精神的な成長に従って徐々に理解できる形に収まってきた、ということなのだと考えている。

 魅魔がとりついているかのような怪しげな魅力は、もう世志子さんにも栗山さんにもないけれど、その代わりに彼女らは活き活きと生きることができ、個性的に活動を続けている。それによってかつてとは異なる輝きを放つ彼女らを見て、かつての少女は死んだとかピークを過ぎたとか言うのはあまりに無粋で、今を見ていない発言ではないか。

 魅魔を祓って平穏な日常を取り戻した世志子さんが純と新たな歩みを始めるところで物語は終わるが、その先にはきっと新しい世志子さんが待っているはずで、超常的な力が失われたからと言って彼女の価値が下がるなんてことは全くないのだ。

 世志子さんのように異常なまでにモテてしまう怪しげな魅力も、それが失われて活き活きと生きられるようになった魅力も、黒ストレートロングが輝く未来を、ぼくは両方見たいと思っているのだ。

ラブコメ作品をどうやって長期化させるか問題

  • 週刊連載の長編漫画は難しい

 漫画の長期連載、特に週刊誌連載は(雑誌の方針によって程度の差はあれど)人気があれば長期にわたって続き、なければ短期で終わる。それは著者本人も物語の長さの想定が困難であることを意味する。

 今描いている話があとどれだけ続くのか分からない以上、漫画は基本的に始めから終わりまでを全て考えた上で描かれることはない。かつ毎週コンスタントに描き続けなければならないために、連載中に考える余裕も十分にはない。
 そのため週刊漫画誌の長期連載においては、完結して改めて振り返ると回収されず残った伏線があったり、過去の描写や設定と現在のそれに矛盾が出たりするのが、むしろ普通だ。

 毎週毎週の面白さとストーリー全体の満足度(や整合性)を両立させるのは困難であるということだ。そんな環境で数えきれないほどの名作が生まれ、人々に影響を与えているのは、改めて考えるとものすごいことである。


 上記は全ての長期連載(特に週刊連載)漫画について言えることだが、そのなかでもラブコメと呼ばれるジャンルでは特に長期連載の難しさを感じることが多い。

 ここでは一旦「ラブコメ」というジャンルの定義をしないが、それでも「ラブコメ」作品がそれ以外の長期連載と比べて明らかに短いことはご理解いただけると思う。
 例えば今まさに週刊少年ジャンプで完結を間近にしている『ニセコイ』は同誌のラブコメ作品で歴代最長だが、それでも既刊24巻。同誌の他ジャンルの人気漫画と比べれば明らかに短いことが分かる。

 短い。確かに短い。にも関わらずラブコメ作品は中だるみやマンネリを叫ばれることが多い。なぜか?

 冒頭に書いた通り、週刊連載の漫画は著者の想定外に長期化する。
 それに対し一般的な漫画であれば想定外に長期化したとしても、「物語の終着点」を「開始時点で明らかにされている物語の終着点」からシフトすることができる。またその手前に途中目標を設定することで、「開始時点で明らかにされている物語の終着点」を(読者の感覚的に)より遠くさせられる。

 例えば高校へ入学した主人公が野球部に入り、甲子園を目指す話があるとする。この場合、途中で人気が出て想定外に長期化したとしても、甲子園に出場して当初の目標を達成した後、今度はプロ野球選手を目指すなど次の目標を立てられる。また甲子園出場を目指す過程で、因縁のライバル校ができ、そこを倒すことを途中目標に設定することもできる。

 ところが同じことをラブコメでやるのは非常に難しい。

 前提としてラブコメでは「開始時点で明らかにされている物語の終着点」が「主人公AとヒロインBが付き合うこと」である。そしてこれが、最終的な物語の終着点でもあるケースが圧倒的に多い。

 それは次の目標、例えば「結婚」が読者にとってあまり身近に感じられないことで避けられているのかもしれない。またドラマの作りにくさもあって、恋愛を扱ったものは多いが結婚となると極端に少なくなるというのは、漫画に限らず小説や映画においても同じことが言える。

 では「結婚」以外で「主人公AとヒロインBが付き合うこと」の次の目標を設定できないか? お付き合いするなかで互いの関係を強めるというのは、いかにもありそうな、実際あることだ。結婚までは到達しなくとも、その手前の途中目標は設定できるはずだ。

 結論から言うと、あくまでぼくの考えだが、ぼくの考えでは、それをやると恋愛漫画であってラブコメではなくなる。

 先ほど後回しにしたラブコメの定義の話に移る。ラブコメとは「魅力的なヒロインと仲良くなる過程や生活を共にする日常」というドリーミーなフィクションを提供するものだからだ。個人的な定義かもしれないが、なんとなくある程度はご理解いただけるものと思っている。
 要するに「主人公AとヒロインBが付き合うこと」の過程にこそラブコメの醍醐味があり、次の目標設定は困難である。


 ではもう一つのやり方。「主人公AとヒロインBが付き合うこと」の手前に途中目標を設定するのはどうか?
 付き合うことの手前。つまり互いをよく知ることや仲良くなること。ステップを経てから関係ができるのは自然なことで、実際これはほとんどのラブコメでやっている。
 この手法の問題としては、これだけでは物語をそこまで長期化できないことだ。
 ゆっくりと少しずつ関係を良くしていく漫画を見たい人は少なくないはずだが、ゆっくりと少しずつ関係を良くしていく週刊連載の漫画は、読者の退屈やマンネリといった懸念を抱える。どこかしらかで急展開がほしいところだ。

 ラブコメの急展開はヒロインBとは別のヒロインCの登場によって作られる。主人公AとヒロインBが途中目標のステップを経て、ゆっくりと少しずつ関係を良くした後、急に登場したヒロインCが主人公Aと接近することで、主人公AがヒロインBとヒロインCの間で揺れる。そのドリーミーなフィクションな日常こそラブコメの醍醐味であり、そこに恋愛漫画とラブコメの差があるとも言える、はずだ。

 ここに至り「開始時点で明らかにされている物語の終着点」は「主人公AとヒロインBが付き合うこと」から、「主人公AがヒロインCではなくヒロインBと付き合うこと」に変わる。それによって「主人公AがヒロインCを選ばないこと(もしくはヒロインCが主人公Aから離れること)」という途中目標ができている。

 しかしこの途中目標は早々に達成されず、むしろ物語の終着点にかなり近いところでようやく達成される。
 その理由は「主人公AがヒロインBとヒロインCの間で揺れる。そのドリーミーなフィクションな日常こそラブコメの醍醐味」だからだ。早々にヒロインCが離脱してはフィクションな日常を楽しむ読者のテンションが下がる。
 また「主人公AがヒロインCを選ばないこと(もしくはヒロインCが主人公Aから離れること)」を達成した後に、「主人公AとヒロインBが付き合うこと」の達成に時間がかかっては、それこそ読者が退屈やマンネリを感じてしまうために、途中目標達成後の物語をあまり長くすることができない。

 こうしてラブコメは、「魅力的なヒロインと仲良くなる過程」や「好意を抱いて近づいてくる複数のヒロインたちとの日常」といった、読者の退屈やマンネリと隣り合わせの醍醐味を抱えながら、続いていく。

 要するにラブコメの長期連載が困難な理由は、その面白さが長期連載と相性が悪いことにある、と考えている。


  • ブコメの長期連載を成功させたい

 ジャンルというのは伝統的なフォーマットであり、常に「今の」感覚で何かしらのアレンジを加えながら枠組みの中で新しい作品が生まれている。ラブコメにおいても様々な形で挑戦が見られる。

 例えばBやCよりはAに好意を抱いていないヒロインDを登場させること。これにより「好意を抱いて近づいてくる複数のヒロインたちとの日常」の醍醐味を増しつつ、ラブコメ的重要度の低いヒロインDを選ばない途中目標を、物語の終着点よりもかなり手前に持ってこれる(もしくは省略することもできる)。

 新規キャラクターの追加は読者の目を引き展開にメリハリがつくために、ジャンル限らず長期化に際し多くの作品で取られる手法だが、「好意を抱いて近づいてくる複数のヒロインたちとの日常」という醍醐味のラブコメとは相性がいい。

 しかしこれもラブコメと長期化の相性の悪さに対する根本的な解決にはならない。


  • 事例研究:ラブコメの長期連載を成功させるために

 ラブコメの面白さは長期連載と相性が悪い。であれば、他ジャンルの要素を組み合わせることでその問題は解決できないか?



 主人公AとヒロインBが一緒に何かに取り組む中で関係を強める。その「何か」を中心に置くことで、恋愛以外の観点で「主人公AとヒロインBが付き合うこと」の次の目標が設定できたり、また「主人公AとヒロインBが付き合うこと」までの途中目標が設定できたりする。


 週刊少年サンデーで連載していた『神のみぞ知るセカイ』は、恋愛ゲーム要素を採り入れ、多数のヒロインのそれぞれと付き合うことを途中目標に設定したショートエピソードを連続した。さらに続けて恋愛とは別の目標を設定した物語を長期展開させ、ラブコメとして完結させた。



 月刊ビッグガンガン連載中の『ハイスコアガール』はゲーム好きの主人公とゲーム好きのヒロインのラブコメで、ゲームが両者を結びつけている。ゲームで強くなることがヒロインとの関係を強めることにつながっているために、ゲームに関する物語展開が続いても恋愛的な進展がないことの間延びを感じさせない。



 週刊少年ジャンプで連載していた『To LOVEる』は「主人公AとヒロインBが付き合うこと」が「開始時点で明らかにされている物語の終着点」でない例だ。
 主人公には気になる特定のヒロインがいるが、彼女との恋愛的な進展はこの漫画において重要視されておらず、むしろ「好意を抱いて近づいてくる複数のヒロインたちとの日常」という醍醐味が続くことがこの漫画の目標地点でもあるように見える。永遠の日常。終わらない日常のラブコメ版。
 実質的な続編である『To LOVEる ダークネス』ではヒロインの1人を主役ポジションに置くことで、主人公ヒロイン間の恋愛関係以外のメイン要素を作っている。それも彼女の目的が主人公のハーレムを作ることであるために、「終わらない日常のラブコメ版」を続けながらも、主人公ヒロイン間の恋愛関係以外の物語目標を進行させている。



 週刊少年サンデー連載中の『初恋ゾンビ』は、ぼくが今一番気になっているラブコメ漫画だが、これは主人公とヒロインが一緒に他人の恋愛上のトラブルを解決することで互いの関係を強めていく。主人公とヒロインが一緒になって取り組むことがこれまた「恋愛」であるために、2人の恋愛的な進展が分かりやすい。
 また主人公とヒロインの認識に大きな差があり、「主人公AとヒロインBが付き合うこと」の達成が、現段階では困難である(=物語の終着点が遠い)ことが読者にも共有されている。



 週刊少年マガジンで連載していた『スクールランブル』はコメディ要素の方が強いラブコメ。群像劇色が強く、様々なキャラクターの片想いや空回りが中心となっている点で『To LOVEる』と同じく、主人公ヒロイン間の恋愛がメインでない作品だ 。
 群像劇として新規キャラクターを増やすことで回したり、各回で劇画調になったり恋愛色が強くなったりとメリハリをつけることで長期展開させ、毎回が10P前後のショートストーリーで構成されているにも関わらず、全22巻の長期にわたる連載を達成した。



 週刊少年マガジンで連載していた『この彼女はフィクションです。』はヒロインBの設定が面白い。ヒロインBがフィクションの実体化したものであることから、「主人公AとヒロインBが付き合うこと」が困難な到達点であることが読者にも分かる。
 ラブコメの長期連載についてはヒロインC(主人公に選ばれなかった方のヒロイン)の扱いをどうするかという点も大きなポイントになるが、ヒロインBとCの立場が異なることも利用してうまい落としどころにまとめたと思う。全4巻だがもう少し長期化できたはずで、してほしかった。


この彼女はフィクションです。(4) <完> (講談社コミックス)

この彼女はフィクションです。(4) <完> (講談社コミックス)


  • 結び:ラブコメの長期連載を成功させるために

 他ジャンルの要素を組み合わせることでラブコメの長期連載は可能になるが、他ジャンルの要素がメインになりすぎると、今度は「ラブコメと言うよりは~漫画」と捉えられてしまう。スポーツ漫画に多少のラブコメ要素を加えた作品が長期連載になったとして、それはラブコメの長期連載としての成功ではない。

 ラブコメ漫画でありスポーツ漫画でもあるというのはもちろん成立することだが、ラブコメの要素を活かして長期化させることで、より面白くなる例だってあると信じている。と言うか、事例研究で例に挙げた作品は全てそこに該当すると思っている。



 ラブコメの長期連載という困難への挑戦と、そこから生じる新たな可能性を信じたい。

『BE BLUES!』を読んでいない人のための『KICKS』(と桜庭さん)解説

 『HUNTER×HUNTER』が休載決定でもう終わり? いやいや俺たちには桜庭さんがいるだろ!!!


(桜庭さん(表紙))


 とゆーことで週刊少年サンデー絶賛連載中のサッカー漫画『BE BLUES!』に桜庭さんが出てきましたよ。

 現実時間にしてなんと8か月ほどまともな活躍の無かった桜庭さんですが(ベンチにはいた)、ここにきてまさかの途中出場。そのリアルタイムな騒動は、サンデー読者にとって桜庭さん1人が『HUNTER×HUNTER』に匹敵する存在であることを再確認させてくれました。

 さて週刊少年サンデー本誌の展開もさることながら、桜庭さん大好きクラスタにとってもうひとつ朗報があります。テレビドラマ『重版出来』の公式サイトにおいて、『BE BLUES!』の著者・田中モトユキ先生が、作中の雑誌に掲載された作品という設定で『KICKS』という漫画を描いているのです。


www.tbs.co.jp
(上のリンク先が『KICKS』無料公開ページになります)


 これがまるで桜庭さんが主人公のような漫画でものすごいので、タイトル通り『BE BLUES!』を読んでいない人に向けて『KICKS』(と桜庭さん)のすごさを説明します。

  • そもそも『BE BLUES!』とは?

 埼玉の天才少年と呼ばれた一条龍が小学生のときから始まり、日本代表を目指すサッカー漫画。現在は高校編で、ユースのチームではない、公立の強豪校から「上」を目指しています。
 場面場面でキャラクターの活躍にスポットを当てるタイプのスポーツ漫画とは異なり、試合全体が分かるような描写がされている(誰がどこにいて、どうパスがつながったか等)のが特徴。あまりサッカー見ない自分が言っても説得力皆無ですが、リアルなサッカーの試合映像を採り入れた漫画と思います。

 あまりキャラクター色の強い漫画ではありませんが、試合全体を描いている関係で、主人公だけでなくその周りのライバルやチームメイトの活躍もたくさんあり、キャラクター人気も強いです。特に桜庭さん。


  • そもそも桜庭さんとは?

 『BE BLUES!』における龍のライバル役。小学生の頃から龍をライバル視しており、身体能力は低いが技術が半端なく高い。
 特徴としては「パスを出さない」(自分で得点できるandしたいから)、「マークを外す動きをしない」(マークされてても得点できるandしたいから)、「常に尊敬を受けたい」(性格的に褒められることがないand褒められたいから)などなどあります。

 漫画においては(あるいは社会においては)、いくら個人の能力が高くても高圧的で自分勝手な選手は出る杭打たれる宿命にありますが、そんな中で桜庭さんがすごいのは、単行本にして既に10巻以上続いている高校編において、いや1巻初登場の小学生だった頃から比べても、何の「成長」もしていないところです。*1

 性格的にもプレースタイル的にも問題がある桜庭さんは、そのせいで敗北を喫したりチームにトラブルを起こしたりしています。そうして物語は桜庭さんの矯正に動き出し、幾たびと彼にパスが出せれば簡単に解決できる成長のきっかけを作りますが、そのたびに桜庭さんは与えられた模範解答以外の方法でその状況をクリアーしていきます(尊敬しかない)。

 結果的に桜庭さんは、今まである特殊状況下でパスを出すこともありましたが、基本的なプレースタイルと性格は維持したまま現在に至ります。

 働き初めてすっかり丸くなってしまった方にも、あのころの尖っていた自分をもう一度思い出してほしい。そう、桜庭さんの活躍を見ることで……。サンデー読者はいつだってそうやって生きてきました。

  • これまで何が起きていたのか?

 桜庭さん不在期間、サンデーには新編集長が就任。大規模な改革を宣言し、新体制へと移行しました。まずは『だがしかし』がアニメ化で一気に知名度を上げ、新しい連載陣もなかなかに好調です。ベテランの藤田先生・西森先生も久し振りに戻って来て、驚くほどにどんどんおもしろい雑誌になっています。
 ただ、桜庭さんがいなかったんだ………。

 桜庭さん不在期間、『BE BLUES!』では新しく外国人の監督が就任。新体制となったチームは、監督の意向を汲めず戸惑いますが、龍の機転もあって一転。新戦術を軸に大量得点で勝ち進みます。
 そんなとき強敵が立ちはだかり、試合は一進一退の攻防が続きます。その中で体制の変化についていけないでいたエースの活躍や通訳として言葉以上に監督の意向を伝えるマネージャーの成長など、色々な面から試合を見せていました。
 ただ、桜庭さんがいなかったんだ………。


  • 『KICKS』の何がすごいか?

 やっと『KICKS』の話に入れます。『KICKS』の何がすごいかと言うと、これが『BE BLUES!』の龍と桜庭さんのポジションを入れ替えた漫画ということです。それはサッカーのポジションという意味ではなく、漫画における主人公の位置に桜庭さんが置かれているという意味です。

 キャラクターの立ち位置入れ替えという公式同人誌的な遊びは、他の漫画でも単行本のおまけとしてたまに見ますが、桜庭さんが「俺様を尊敬しろ」が口癖なくらい常に尊敬を求めている情報と併せて読むと、この入れ替えが実にぴったりで楽しいのです。

 『KICKS』1P目。左の女子が龍の幼なじみでちょっと男勝りですが龍に対しては献身的で尽くしてくれる胸が大きな現在は高校サッカー部のマネージャーです。言うまでもなく龍のことが好きです。
 右の女子が一度サッカー部へ見学に来て大騒ぎになったほどのハーフ美少女。フィギュアスケート界のホープで、龍のプレーを見てファンに。現在は龍の追っかけ。言うまでもなく龍のことが好きです。

 『KICKS』3P目。黒髪ポニーテールの女子はサッカーとは何の縁もなく生きてきましたが、英語が得意なことから新監督の通訳としてチームに加入。長身でスタイルもよく、凛々しい印象からクラスでも人気で、本人もはじめこそ体育会系なノリを嫌っていましたが、現在は言うまでもなく龍のことが好きになり始めています。

 と、ここまで説明してきたのは『BE BLUES!』の話で、『KICKS』では上に書いた龍の箇所が全て桜庭さんに置き換えられています。

 これを読むと桜庭さんがずっと求めている尊敬や称賛を受けているのが龍で、桜庭さんがたびたび龍に突っかかるのは、龍が桜庭さんの求めているものを持っているからかと推測できます。
 しかし実際、桜庭さんは龍のようには生きられません。『BE BLUES!』と合わせて『KICKS』を読むことで『KICKS』には全く描かれていない、桜庭さんの孤独と哀しさとそれを上回る圧倒的な強さを、浮彫のように感じられるのです。

  • ついでに本誌の展開について

 現在、週刊少年サンデー本誌では、これ以上ないくらいに桜庭さんが称賛を浴びています。ついに時代が桜庭さんに追いつきました。
 『BE BLUES!』という漫画は龍の不屈の精神が周囲に影響を与え、一度挫折した人々を良い方向へ持っていくところがドラマとしての醍醐味ですが、今回は桜庭さんが龍の信念である「決めるべき時に決めてみせる」を実現して見せ、今度は龍に刺激を与える新展開となっています。読もう週刊少年サンデー


*1:念のため補足するとぼくは桜庭さんが成長していないとは思っていません。チームメイトと信頼関係を築くのは確かに成長ではありますが、それはひとつの成長でしかなく、それ以外にも選手として能力を伸ばす道はいくらでもあります。それなのに協調性のみを指して「成長」しろと矯正する社会を皮肉った、また道標なき世の中において与えられた道を進むのではなく、自分の頭で考えるということを教えてくれるのが桜庭さんというキャラクターという見解です。ですので正確には、桜庭さんは成長はしているが、社会に迎合した「成長」はしていないというスタンスです。このまま続けてほしいところです。

今週の黒ロン:『小説の神様』

今週の黒ロン

 アニメ制作を主題にしたテレビアニメ『SHIROBAKO』に平岡というキャラクターがいます。
 かつてアニメ制作に夢を抱き熱心に取り組んできた平岡は、業界の理不尽な現状に直面し、経験は積み仕事はできるが雑にこなすだけの状態になって現れます。業界に失望しながらもその業界から離れられない。矛盾した中途半端な立場でいて、そのことも自覚して、平岡は『SHIROBAKO』という物語に登場します。
 『SHIROBAKO』の主人公で入社2年目の宮森は、熱心に良いアニメを作ろうとがんばっており、そのために平岡とは度々対立します。平岡はそんな宮森を、業界に夢を見過ぎているだけで、いつか自分と同じように失望するだろうという風に見ています。


 『小説の神様』の主人公・千谷一也もはじめ、この平岡のような状態で登場します。


小説の神様 (講談社タイガ)

小説の神様 (講談社タイガ)


 中学生で作家デビューし、文章力の高さを評価された千谷は、しかしそれ以降は苦戦。出版不況も重なってか年々部数は減り続けています。薄っぺらくてつまらないと感じた小説ばかりが売れていて、自分の作品は酷評されるだけ。自信と意欲を失った千谷は「小説に力なんてない」と思うようになります。

 物語はこの千谷が、同じく高校生作家の小余綾詩凪(こゆるぎしいな)と共作を出す企画から動き出します。小余綾は千谷と異なり人気作家で、小説に対し冷めた見方しかできなくなっている千谷と度々対立をします。曰く、「私には小説の神様が見える」。

 千谷は小余綾との共作を進める中で、徐々にかつての小説に対する熱意を取り戻し始めます。『小説の神様』は千谷を小余綾を通して、「物語とそれを創る意義」を描いています。


 主人公の造形について。作中、千谷は「自分に自信のない失敗ばかりする主人公なんて今の世の中では受け容れられない。もっと万能で見ていて爽快な主人公造形が必要だ。実際そういうものが受けている」ようなことを言います。
 『小説の神様』ではこれに対し、それでも悩み失敗しながら勇気を持って進む主人公が必要だという方向に進展します。そして実際、『小説の神様』も千谷という、弱く脆い主人公が歩み出す話となっており、メタ的にこの説得力を強めます。そのメタ構造にはもう一つ上があり、それは著者の相沢沙呼先生自身です。

 相沢沙呼さんは鮎川哲也賞を受賞してデビュー。『小説の神様』の主人公と同じく文章の巧さを高く評価された方です。ミステリ界からのデビューですが、ミステリに限らず漫画原作やライトノベルなど、広くエンターテイメントに関わっています。
 しかし商業的には厳しい状況であることをtwitterなどでは発言しており、いち読者としては正直不安でした。

 千谷の置かれた状況は相沢さんとかなり重なるものがあり、『小説の神様』という物語の願いを通して、相沢さん自身も千也のような状態から抜け出すことができ、それにより作中で訴えられる「物語とそれを創る意義」がより説得力を持てたのだと思います。

 『小説の神様』は上述の通り「物語を創る意義」を大きなテーマとしていますが、冒頭で例に出した『SHIROBAKO』と同様、より普遍的な「働くことや自分の仕事の意義」としても受け取ることが可能です。

 それは『小説の神様』で書かれる(おそらく相沢さんの体験に則した)今の商業作家の厳しい現状がとてもリアルで、現実感を持ってその悩み苦悩が読者に伝わるからです。作中でも小説はウソを書くんだから取材なんて不要という話が出ていましたが、現実的とは別の意味で、キャラクターの気持ちを親身に感じるには、その置かれた状況をよりリアルに書くことが必要なのだと、『小説の神様』を読んで思いました。



 さて今週の黒ロンらしい話もしておくと、相沢さんはデビュー以来、黒髪ロングストレートでSな性格の美少女ヒロインを好んで描く方です。



 『小説の神様』の小余綾もまた黒髪ロングストレートでSな性格の美少女ヒロインです。
 高校生で人気作家で、誰もがはっとする美少女。自信に満ちたアクティブな振る舞い。千谷に対してキツく当たるのも誰より小説の可能性を信じた真摯さ故で、理由のないSな言動が苦手な読者にも受け容れられるものと思います。

 『小説の神様』は登場人物こそ高校生のお話ですが、内容的にはお仕事ものです。
 それでも高校生をメインにした理由はいくつかあるのでしょうが(日本のフィクションは中高生ばっかみたいな話、ちょっと前にもありましたね)、個人的には「思春期の男子高校生的な目線からの黒髪ロング美少女に対する、羨望と性的観測の入り混じった描写」だけで充分その理由足り得るかなと思います。
 高校生くらいの年頃の、自分なんかが見ていては悪いようで、でも目を離せない。きれいなものへの憧れや憧憬を含んだ視点からは、直接に美しいものそのものの美しさを描写する以上に、読者にノスタルジックに訴えてきます。

 すると、体育館の入り口から、運動着姿の小余綾が姿を現した。長い黒髪は未だシュシュで括られ、ポニーになっている。その髪を揺らしながら、華奢で美しい身体が水道のところまで歩んでいくのを、僕はぼんやりと見つめる。
 彼女はそこで顔を洗った。蛇口から飛び出す水が、きらきらとした水滴となり、小余綾の紅潮した頰と垂れた髪を飾っていく。彼女は顔を上げて、心地よさそうに伸びをした。
相沢沙呼『小説の神様』)


 相沢さんはデビュー当時からこういう描写が非常に巧く、千谷や小余綾のように、これからも小説を書き続けてもらえたらなと願っています。サンドリヨンとマツリカのシリーズ続きが読みたい!

『うちのクラスの女子がヤバい』という革命

1年1組はどこにでもあるごく普通のクラス。だけど、他のクラスとはちょっとだけ違うところがありました。女子生徒がみんな、「無用力」と呼ばれる、まるで何の役にも立たない、それも思春期だけしか使えない超能力を持っていたのです――。思春期女子はへんてこで、それがフツーで、みんなかわいい!衿沢世衣子が描く、思春期限定・ちょっと不思議なハイスクール☆デイズ!



 漫画『ONE PIECE』は主人公の少年・ルフィが幼少期、ひょんなことからゴム人間となるところから始まります。漫画のファンタジーな能力は物語のトリガーとなるもので、登場人物はいつもそれを活用して苦難を乗り越え活躍します。

 衿沢世衣子においては少し違います。思春期だけしか使えない、くだらないささいな超能力「無用力」。場合によっては、場合によらなくてもマイナスに働くことの方が多いこの能力を持って、彼女たちは日常生活を送っています。

 おそらくこれは衿沢なりの「個性」のメタファーで、ものすごい物語のきっかけになる能力だけが個性ではなく、むしろ「個性なんてものは何の役にも立たずすぐに失われるくだらない性質だ」と衿沢は言っている、ように見えます。

 そこに否定的なニュアンスはなく、むしろ他人と比較して優れた能力を持たない多くの人に対する「気にしなくていいよ」という肯定的なメッセージを感じます。表紙画がフランス革命の名画から引用されているのも、「くだらない能力しかない私たちが物語の主人公となる(という革命)」を示唆しているのでしょう。いやはや衿沢世衣子がヤバい。