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『とめはねっ!』にみる文化系部活漫画の「努力」について

漫画

物語、特に少年漫画において絶対に正しいルールに、「努力は勝つ」があります。「圧倒的才能の前に努力は無意味なのか?」などはしばしば主人公の前に提示され、そのたび否定される定番のテーマです。
才能が全てと言い切ってしまえばそこから先に進まない。だから物語において努力は常に才能を越えます。「俺はお前より努力した。だから勝った。」これは読者としても納得できる理由付けであるし、努力の大切さを説くものでもあります。だから例えそれが「薄い」というそしりをうけるものであっても、漫画では努力が描写され続けます。

「努力は勝つ」
悲しいことに現実では必ずしも機能するルールではありませんが、物語においてこれは守られ続けています。


さて、『とめはねっ!』6巻では全国優勝した大分の豊後高校に結希が「宣戦布告」し、笑われるシーンがありました。

とめはねっ! 6 (ヤングサンデーコミックス)

とめはねっ! 6 (ヤングサンデーコミックス)


豊後高校の練習量は全国でも十指に入り、鈴里高校のそれとは比べ物にならない。全国優勝するような部活はそういうものだと結希は諭されます。しかしそれに納得できない結希は以下の結論に至る。

世の中に100%ムリなことなんて、そんなにたくさんないと思う。

ほんのわずかでも、可能性はきっとあるはずだって・・・!


ここで「努力は勝つ」のルールを適用してみましょう。

努力量は完全に豊後高校が上です。『とめはねっ!』はとてもリアルに文化部をやっているので、少年漫画的にはよくある「実は裏でもっとすごい努力をしていた」とか「リスクが高い修行を経る(努力の質の描写)」とかいう展開は今後ないでしょう。

こういった「努力は勝つ」のルールを守るための無茶な努力描写は今後もないとして、では将来的に努力量で劣る鈴里高校が豊後高校に勝つ展開を見せれば、それは「努力は勝つ」に反するものにならないか?


ここでのポイントは鈴里高校は「努力は勝つ」ルールの仮想敵「努力を欠く才能だけの人」ではないということです。むしろ努力型。そう、豊後高校と「同じ」努力型です。「同じ」と表現したのは両者の努力は同じではないからです。


この発言の後、意を決した結希は柔道部を辞め、書道の練習時間を多くとろうとする。これを部長の日野はこう言って止めます。

「書は人なり」という言葉があります。書にはその人の個性が出るの。

柔道を止めてしまったら、望月さんの書は、個性が少し薄れてしまうと私は思う。

練習量は確かに大切だけど、それだけじゃないわ。

たとえば自分が本当に書きたい書を見つけること。これだって大事なことでしょ?


両者では努力の「色」が異なる。ここで色としたのは質と言うと優劣があるようにとられるからです。いま結希たち鈴里高校のやろうとしているのは、自分にとって最適な努力の色を探すこと。

こうして発言を取り出してみると、結希は否定はしていても努力の「量」にこだわっていおり、日野は努力の「色」を理解していることがよく分かります。もっともこれは結希がスポーツの人であることにも原因がありそうですが。


結希には悪いけれど大会で勝つのは豊後でしょう。練習量があまりに違いすぎる。リアル志向の文化部漫画である『とめはねっ!』で鈴里が豊後に勝つ展開はちょっと予想がつかない。しかしこれから彼女らのする努力に何の意味もないかといえば、そんなことはありません。

例えばバトル漫画では努力し敵に勝利せねば世界の危機が訪れます。例えばスポーツ漫画では努力し結果を残すことが全てと言わずとも目的です。だから時折無茶な努力描写をしてでも「努力は勝つ」ルールを順守しなければならない。それはもうルールに縛られている。

しかし書道は、文化芸術は違います。必ずしも大会で勝った方が優れているわけではない。大会で勝つことを目的としない。勝負とはかけ離れたところにその価値がある。目的は勝利ではない。だから「努力は勝つ」ルールからも自由であり、色々な努力が許される。色々な努力がなされる。

最近は『ちはやふる』のようにいスポ根タイプの文化部活ものも見られるようになってそちらの方が成功しやすいように思いますが、文化部活の本当の面白さはここにあると思います。


「書は人なり」、ならば人の数だけ書があり、努力の色も同数。

「努力は勝つ」のルールから離れ、自分だけの書を目指す『とめはねっ!』。今後とも楽しみです。