懐疑主義にしたがって『鬼灯さん家のアネキ』 水野さんを語るという試み

突然だが懐疑主義によれば正しい認識は不可能と言う。なぜなら人間は何かを認識する上で「意識」を介在しており、この意識が主観的なものであるからだ。主観的な意識は人それぞれであり、したがって誰にとっても正しい認識は存在しない。

このことは哲学においては昔から言われていることだが、知識だけでは意味を成さない。何事も実感を伴って初めて分かったと言えるだろう。


……ところで『鬼灯さん家のアネキ』という漫画がある。



色々なブログで感想を読んだが『鬼灯さん家のアネキ』は「エロい姉うらやましす」ばかりが取り沙汰されている。それが各ブロガーの主観による認識なんだろう。もちろんそれはある面では正しい。「お前が思ってるならそうなんだろ、お前ん中ではな」である。こう言うのはもちろん、私の認識が異なるからだ。

では私の主観意識は『鬼灯さん家のアネキ』をどう見るかといえば、黒髪ロングの水野さん漫画である。以下、誰もがふれていないようなので水野さんの魅力を語ることにする。



(『鬼灯さん家のアネキ』水野さん)

  • 作品のシリアスバランスをとる

さて、いくつか読んだ感想の中でたまごまごさんは『鬼灯さん家のアネキ』がエロいコメディの中にもシリアスなラブストーリーを読みとっていた。なぜエロラブコメな『鬼灯さん家のアネキ』にシリアスラブが感じられるかと言えば、姉と弟の間に入るヒロインである水野さんがとても地に足のついた自然なヒロインだからである。


例えば「同性に嫌われるタイプ」の女子である水野さんが、いつも姉と仲良さそうにしている主人公に、家庭内の小さなディスコミュニケーションを相談するのは理由づけとしても納得できるし、水野さんの方は「別に告白とかじゃないわよ」と恋愛感情をカンタンに否定してくるさらりとした関係も自然だ。

かなり「尖った」キャラである姉に対し、このように自然な感じの水野さんを配置することで作品としてのバランスがとれ、結果シリアスな感じも保たれている。

水野さんの魅力を語るにあたって、彼女が冬目景的ヒロインであることを避けて通れない。


(『鬼灯さん家のアネキ』水野さん)

冬目景羊のうた』高城千砂さん)


このコマなんか非常に分かりやすいが、この「内に何かをため込んでいて話してくれないことが分かるから、それを聴くこともできない感じ」は間違いなく冬目景のそれである。このそっけないようで気にかけてほしいようなというか気にかけてしまうような空気。まぁ、ファンにとっては説明するまでもないだろう。(もちろん4コマ漫画である以上、デフォルメされたかわいい水野さんも登場する。もちろんすこぶるかわいい)

  • 後ろの席


そして「後ろの席」。隣の席なら話す機会も多く教科書忘れれば机くっつけられ、前の席なら授業中ずっと背中を凝視できる。ところが隣接した席で、後ろの席は一番おいしくない。なまじ近いだけに「隣なら・・・、前なら・・・」という無意味な後悔も生まれる。授業中何かヘマをしたら確実に見つかり、マイナス評価はカンタンにつくけれどプラス評価はつきにくい。全神経を背に集中した学生生活の始まりである。たいていの場合この集中力は無駄に終わるが、それでも何かしらの連絡事項などがあって「後ろからつつかれる」可能性はある。そのとき我々は隣接席となったことに嬉々とする。何が言いたいかといえば、後ろの席から関係をもてた吾郎(主人公)大勝利である。

  • まとめ

このように私にとって『鬼灯さん家のアネキ』は黒髪ロング漫画の他の何でもないわけだが、おそらく大半のブロガー動揺、多くの読者にとって『鬼灯さん家のアネキ』は姉萌えエロラブコメに映ることだろう。

冒頭に戻って意識という主観を介在している以上、誰もが正しい認識は存在しないというお話でした。


  • おまけ

ちなみに水星さん家のアネキは千砂姉さんと初音姉様です(聴かれてない)