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思想家としての名探偵

注)本エントリにおける思想・ミステリ知識は筆者の頭の問題であまり信用が置けません。よく知った方から見て何か間違いがあれば指摘していただけると幸いです。



カオスな世界を「理」で秩序づけるという点において、名探偵は思想家と立場を同じくする。
最終的にはほぼ確実にそれが受容される名探偵と違って、思想家の場合は強い反発を生んだり、死後初めて評価されたりもするが、彼らは皆その世界の謎を推理し、解答を提示する。

20世紀に登場した構造主義は、構造に囚われた人間は絶対的な視点をもつことができないことを明らかにする。

構造主義というのは、ひとことで言ってしまえば、次のような考え方のことです。
私たちはつねにある時代、ある地域、ある社会集団に属しており、その条件が私たちのものの見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定している。だから、私たちは自分が思っているほど、自由に、あるいは主体的にものを観ているわけではない。むしろ私たちは、ほとんどの場合、自分の属する社会集団が受け容れたものだけを選択的に「見せられ」「感じさせられ」「考えさせられている」。そして自分の属する社会集団が無意識的に排除してしまったものは、そもそも私たちの視界に入ることがなく、それゆえ、私たちの感受性に触れることも、私たちの思索の主題となることもない。
(内田樹『寝ながら学べる構造主義』)


寝ながら学べる構造主義 (文春新書)

寝ながら学べる構造主義 (文春新書)


さて、構造を物語世界に置き換えれば、名探偵にもこれは当てはまる。いわゆる後期クイーン問題だ。

「作中で探偵が最終的に提示した解決が、本当に真の解決かどうか作中では証明できないこと」についてである。
つまり“推理小説の中”という閉じられた世界の内側では、どんなに緻密に論理を組み立てたとしても、探偵が真相を推理することはできない。なぜなら、探偵に与えられた手がかりが完全で全て揃っている、あるいはその中に偽の手がかりが混ざっていないという保証ができない、つまり、「探偵の知らない情報が存在することを探偵は察知できない」からである。
特にこの第一の問題については、推理作家法月綸太郎が論文『初期クイーン論』(初出「現代思想」1995年2月号 特集「メタ・ミステリー」、青土社)で「シャム双子の謎」について分析し指摘したことで知られるようになった。
後期クイーン的問題 -Wikipedia-


後期クイーン問題はミステリ界に大きな衝撃を与えた(らしい)。以降、数々の作品がこの問題に挑戦する。



舞城王太郎に『ディスコ探偵水曜日』という長編がある。この第2部「ザ・パインハウス・デッド」でも(本書は4部構成)、その後期クイーン問題が採り上げられる。


ディスコ探偵水曜日〈上〉

ディスコ探偵水曜日〈上〉


パインハウスという建物に集まった10数人の名探偵たち。そこで間違った推理をした者には自ら死ぬ運命が迎えに来る……。「誰が本当の名探偵か?」という推理バトルかと思っていた名探偵たちは、次第にその考えを疑い始める。名探偵が推理し、その時点では正しかったはずの解答が、その直後新たな事実が発覚することで事後的にその推理が間違いにされるのだ。名探偵たちはこの世界に悩み出す。


ここで面白いのは名探偵が死に、新たな推理が出るたびに彼らが前進しているわけではないことだ。名探偵を思想家に変えれば、社会思想の見方が進歩史的ではないということ。それはディスコの「さすが名探偵だ。結局あいつら誰も間違ってなかった」というセリフからもうかがえる。

「ザ・パインハウス・デッド」という圧縮された構造主義の流れは、その視点を皆に共有されそれが普遍的になる(ポスト構造主義への移行)。ミステリ的文脈で言うと、登場人物がみな後期クイーン問題に自覚的になる。

「どうあっても絶対的な視点をもつことができない」という構造主義が広まると、それはニヒリズムを生じたし、今もそこから抜け出していない(たぶん)。『ディスコ探偵水曜日』はそれを超越する。

神という共通の絶対的価値基準が失われ、個人が個人の信じるところのものを信じるしかないという相対主義の時代において、本書『ディスコ探偵水曜日』というとんでもない作品が登場してきたのは、ある意味必然であったのかもしれない。
『ディスコ探偵水曜日』 -八方美人な書評ページ-


さて、ディスコは構造を飛び越えることで後期クイーン問題を解決する。しかしその外にはより大きな世界が広がっていて、彼はその中の登場人物に過ぎない。結局のところ構造問題からは逃れられないのだ。それでも彼は自覚的にその役割を演ずることを選ぶ。それは決して道化などではない。仮に「外」からそう見えるとしても、彼にとってはもっとポジティブな姿なのだ。それは彼がひとつ大きな「遊び」をつくっていることからも明らかであろう。