読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

「大人」って何だろう?: 『惑星のさみだれ』

漫画

子供のころ好きだった漫画やアニメでは、高校生のお兄さんお姉さんがとても大人なふるまいをしていて、おそらく多くの人と同じように、私もそれに憧れて育った。
しかし、いざ自分が高校生になってみると「あれ?高校生ってまだ子どもじゃね?」と気づいてしまう。「大人って何だろう?」と、誰もが考えたことがあると思う。


思えば『惑星のさみだれ』には、「大人」と「子供」というキーワードがよく出てきた。


惑星のさみだれ 10 (ヤングキングコミックス)

惑星のさみだれ 10 (ヤングキングコミックス)

大人と子供の境目ってどこでしょうか。大体が10代〜20代前半の漫画の主人公の目には、20代中盤の人物は大人に映ります。
主人公世代の導き手であり、老いによる力の衰えもない。
しかし社会人的には20代は後半でようやく新人の冠が取れたというところです。
世界は広くて、大人の道は長い。
(2巻作者コメント)


それは作品の中でもはっきりと描かれている。

三日月「ま アニキも社会じゃてんで若造だよ あれだよ小1のときに小6がすげぇ大人に見えたみたいな」
さみだれ「茜くんや昴ちゃんユキちゃんから見たらあたしらもすっごい大人に見えてるんかなー」
(7巻42話)

夕日「あの子達(太陽・雪待ら)から見たらぼくは多分…大人に見えてるんだ」
(7巻44話)


はじめに言ったような子供向け作品の描写もそれが間違っているのではなく、「子供の目から見れば高校生は大人に見える」ということだったのだ。『惑星のさみだれ』はここに意識的だった。

では、子供に見せるべき「大人」の姿とは何なのだろうか?これもまた、はっきり作品で描かれている。

さみだれ「大人ってのはお父さんや東雲さんみたいに人生楽しそうにしてる大っきな子供や ああいう笑顔を子供に向けれる人が大人!」
半月「大人が笑うのはな大人は楽しいぜって子供に羨ましがられるため 人生は希望に満ちてるって教えるためさ」
(2巻12話)

さみだれ父「こんな人になりたい…って思わせるような子供達のヒーロー それが大人や」
(2巻13話)


半月らの言葉を継いで、夕日と三日月は太陽に「大人」の姿を見せる。特に最後の戦いを終えて、それを無意識に体現したのは、二人にとっても大きな変化だと思う。

太陽「今は辛いことばっかりだけど 多分 大人になれば楽しいことはあるんだ ロキ 
ぼくもいつか大人になるんだな」(夕日と三日月の戦いを眺めて)
(10巻64話)


もっと言えば、大人になることを拒否していたさみだれが、夕日を見て生きることを選んだ。これこそ「人生は希望に満ちてるって教える」「子供達のヒーロー」だろう。

さみだれ「…ゆーくんは変わった 大人になった(略)あたしは大人になられへんわ」
(5巻33話)


また9巻では「子供」にも目が向けられた。

南雲「「守る戦い」は大人のものだと思っていた それは驕りだ 子供達には自分の明日を守り抜く力がある 「流れ星の矢」が完成した日 子供達の明日が来たのだ!!」
(9巻56話)

南雲「茜が子供? 身体の大小や年齢は関係ない ここには戦士しかいない 子供はお前だけだ アニムス」
(9巻59話)


「子どもは小さな大人」とはルソーの言葉だが、要は「大人」「子供」の二分自体がナンセンスということだろう。今の私は、大人というのは社会的な要請で与えられるポジションのようなものだと思っている。年を重ね、それ相応に立場が変わるに従い、次第に「大人」を求められる場が多くなっていく。それは精神的な要因とも関係なしに。


惑星のさみだれ』最終話に関しては、十年後の騎士たちが「内」に収束してしまうことに対する否定的な意見も見た。気になるところではある。それでも私は、ここまで「大人」を描いてきたこの作品が、「少し大人になった」で幕引かれるところに、確かな広がりを感じるのだ。