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「あしながおじさん」の視点

年末にウェブスターの『あしながおじさん』を読み返していました。


あしながおじさん (新潮文庫)

あしながおじさん (新潮文庫)


あしながおじさん』は、孤児院で育った少女ジュディが一人の資産家の目にとまって、毎月手紙を書くことを条件に大学進学のための奨学金を受け育っていく物語です。タイトルはジュディが援助者を「あしながおじさん」と呼んだことから。導入部以外はすべてジュディが「あしながおじさん」へ書いた手紙で構成されています。


……さて、あなたはこの話を「誰の」視点で読みますか?あるいは読みましたか?

まずはジュディの視点でしょう。『あしながおじさん』は少女小説の代表作であり、児童文学としても有名です。ジュディの17歳と言う年齢は児童文学の主人公としては若干高めの設定にも感じますが、17まで孤児院で育ったジュディにとって外の世界は新鮮で、子供のようにはしゃぐ姿は幼い読者の共感を呼びます。それは『あしながおじさん』が児童向けレーベルで多数出版されていることからも分かります。私も昔読んだときはジュディの視点でした。

ところがこの物語にはもう一つの視点があります。それが「あしながおじさん」の視点です。ジュディの手紙を読む「あしながおじさん」なる人物は確かに存在しているのに、その登場するのは(序盤にジュディの見る影を除けば)最後の数ページだけです。その間はジュディに金銭的な援助を続けますが、基本的にはほとんどジュディ(というか作品世界)に干渉せず、物語に登場しません。「外」からジュディの手紙を読むだけです。この点で「あしながおじさん」は読者と立場が同じくします。ジュディの視点で読めなくなった、特に「大人」読者は、「あしながおじさん」と同様ジュディを見守る立場で読む人が多いことでしょう。

この「中心人物の目に見える世界の新しさ」と「そのときの読者の視点」は『よつばと』と比べると面白いです。『よつばと』をよつばの視点で読む人は少ないと思いますが、それはよつばとジュディの年齢差、そして読者層の年齢差が大きいのではないでしょうか?


あしながおじさん』という物語の最後、「あしながおじさん」は作品世界に登場することで読者と共通の足場を捨てます。
優れた物語のラストにはその先に現実があり、読者を現実世界に回帰させるという話があります。例えば『∀ガンダム』のラストがそうです。

だから、私は『∀ガンダム』の最終回が終わった「その後」については、1秒だって必要ありません。
あれは、いつか絶対に終わることが保証されている「時間限定の永遠」でいい。

それは「終わらない幸せな日常」世界への逃避ではなく、フィクションから一切の未練なく帰還するための手続きのように個人的には思います。
この世界は私が干渉(妄想をたくましく)する必要がなさすぎる。
私にとって『∀ガンダム』は、世界に一切の未練なく現実に帰還できる稀有な作品なのです。
惑星の午後、僕らはキスをして、月は僕らを見なかった。<『∀ガンダム』最終話「黄金の秋」より> - HIGHLAND VIEW 【ハイランドビュー】


HIGHLAND VIEWさんの考察の引用ですが、私も同意するものです。この場合物語が幕を閉じた先に現実世界があることを意味しますが、先に見たように「あしながおじさん」の場合は物語が幕を閉じる少し前、「あしながおじさん」の登場するときが読者が現実に戻るポイントとなります。ここで読者は背中を押すように「あしながおじさん」を送り出し、ジュディと作品世界を「あしながおじさん」に任せ自分は一足先に現実世界に戻るのです。そこで読者はジュディのみならず物語を見守る視点(=現実への回帰)を獲得します。
これがラストの後に現実に回帰する物語と異なるのは、回帰した後にもその場所でラストを読むことができることでしょう。『あしながおじさん』の読後感のよさは、もちろん着地点のきれいさもありますが、「大人」の読者にとってはこういった側面もあるんだろうなと思いました。


ところで勝田文先生に『Daddy Long Legs』という作品がありますが、これは『あしながおじさん』の舞台をなんと昭和初期の日本に置き換えての漫画化です。


Daddy Long legs (クイーンズコミックス)

Daddy Long legs (クイーンズコミックス)


『Daddy Long Legs』にはもうひとつ原作と大きく異なる点があって、それは「あしながおじさん」が始めから登場することです。これにより先に述べた視点は捨てるものの、ジュディ側の物語と交差した「あしながおじさん」の物語もみることができます。そういった視点からも、両作品を読み比べてみるとさらに面白いです。