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共依存の先に――。 : 『オクターヴ』

百合 漫画

「社会にとって価値ある人間になりたい」――と、誰かが言った。それでいいだろうか、私は疑う。

昔、「人を一人殺せば人殺しであるが、数千人殺せば英雄である」と言った人がいる。そういう時代が、社会があった。そこでは「人をたくさん殺すこと」が社会にとっての価値だったんだろう。

社会は時代の中で移ろい変わりゆく。そして「私」と社会は違うものである。ならば社会の求めるものが結果として私を殺すことにだってなるかもしれない。
社会にとって価値ある人間を目指すのは、社会とぴったりくっつくことではないか?社会に依存しきった状態。それは怖い。

「社会」を「他者」に置き換えてみる。他者に依存しきって他者と自分が同じであるかのように錯覚した状態。そういう状態は危険だと「彼女」は言った。



「心も体も密着しすぎて 彼女のこと別の人間と思えなくなっちゃったんじゃないですか?」
「そういう一心同体の感覚 すごーーく気持ちいいんですよね」
秋山はるオクターヴ』5巻)

「お互いを共有しているような陶酔感って 人をどんどん鈍感で傲慢にしていきますよ」
「おしまいには彼女を好きなのか彼女を好きな自分が好きなのか わかんなくなっちゃったりして」
秋山はるオクターヴ』5巻)


昨年完結した『オクターヴ』は共依存の先を丁寧に描いた作品だ。


オクターヴ(6) <完> (アフタヌーンKC)

オクターヴ(6) <完> (アフタヌーンKC)


宮下雪乃は幼いころからテレビの向こう側の世界に憧れていた。そして彼女は一度それを手にする。アイドルとして上京した雪乃は、しかし売れなかった。田舎に帰った雪乃を待っていたのは、元アイドルという目立つものを排除する閉鎖的な空気だった。雪乃は逃げ出し、再び上京する。かつての事務所で今度はマネージャー見習いとして働き出すものの、すがるものはいない。かつての仲間は別の道を歩み、自分より年下の者も自立している。
そんなある日、彼女は作曲家の岩井節子と出会い、彼女と関係をもつ。そして二人は付き合い始めた。もともと東京で頼る者のいなかった雪乃は節子に深く依存するようになる。


これが短編であれば、雪乃と節子との出会いで終わっただろう。いや、長編としても『オクターヴ』には何度も、ここで終わってもおかしくない、二人がつながる瞬間があった。

なぜ終わらなかったのか?それは『オクターヴ』において雪乃の自立が大きなテーマだったからだ。

様々な出来事を経て、雪乃は節子に依存しきった状態から少しずつ歩み始める。『オクターヴ』において描かれるのは雪乃の自立していく姿だ。ずるずると過去を引きずっていつまでも変わらない雪乃はやがて変わろうと決意する。決意し、自分と向き合い、やっと歩き出す。

共依存は美しい。二人だけの世界。しかし冒頭の社会の話を思い出してほしい。それは危うい美しさだ。

あるとき、節子は雪乃に海外旅行へ行こうと提案する。



「私――全然知らない場所を…………雪乃と歩いてみたいんだ」
「私たちを誰も知らない場所――」
秋山はるオクターヴ』6巻)


しかしそれは逃げだった。二人は「私たちを誰も知らない場所」に逃げるのではなく、「みんなが私たちを知っている場所」で、それに向き合って生きていかなければならないのだ。

一方変わろうと決意した雪乃は、しかしそう簡単に変わることはできなかった。その理由を自分が担当するアイドルであるしおりにこう指摘される。



「宮下さんは他人に承認してもらわないと自分を実感できないんですよ」
「他人の中に”自分”を探してもしようがないのにね」
秋山はるオクターヴ』6巻)


この雪乃の性質は、もしかすると彼女が昔メンバーで一番人気だった理由かもしれない。そして今も彼女がひどく無防備な、だだもれなのもこれが原因のように思える。しかしそのままではいけなかった。

雪乃はかつての仲間であるミカとの再会し、そこでしおりの言葉を反芻する。自ら考え選ぶようになり、コンプレックスをもっていたかつての仲間とやっと向き会う。

また雪乃は節子との会話の中で自分とも向き会うようになる。その起こりはほんのささいなことだったが、それは雪乃にとって大きな悩みであった「自分のことが嫌い」から解き放ち、先を開けた。


そんなまわりくどくて気持ち悪いことやめて ストレートに「自分が好き」って
もう私 そう言っちゃっていいよね
秋山はるオクターヴ』6巻)


そして雪乃は海外旅行についても逃げない道を選択する。

最終話、雪乃と節子を乗せた電車は、雪乃の引きずった過去そのものである故郷へ向かう。単行本では後日談のようなものは一切描かれなかったが、しかし二人の未来はもう安心できる。それを示すラストシーンに、私は『星の王子様』で有名なサン・テグジュペリの言葉を思い出す。

「愛するということは、お互いの顔を見つめる事ではなく、一緒に同じ方向を見つめる事だ」byサン・テグジュペリ



二人だけの電車の中、手を握って、窓の外を見ている雪乃と節子。電車は雪乃の過去である生まれ故郷へ向かう。引用したサン・テグジュペリの言葉をなぞるような光景だ。

百合作品に限らず漫画に限らずフィクションに限らず、二人だけの関係に閉じてしまう恋愛が多くみられる中、『オクターヴ』はその先までを描いた。特に社会に許容されがたい関係を描く百合作品は狭く閉じてしまいがちだが、その中でこんなにも前を見つめた話という意味で『オクターヴ』はずっと私の心に残り続けるだろう。

雪乃はもう、節子にも社会にも依存せず、あのとき止まっていた時から歩き始めるのだ。