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記憶と夢について : 『きことわ』

小説

先日はニコ生で芥川・直木賞会見を観ていました。まさかニコニコ動画で観われるとは面白い時代になったものです。特に西村さんの例の発言をリアルタイムでニコニコ動画で観ることができたのは楽しかった。

さて、今回芥川賞を受賞した朝吹真理子先生ですが、もしやと思っていたところツイッターで大叔母が翻訳家の朝吹登水子という情報が流れてきてさらに興味がわいていました。それとは別に気になる点もあったので著作を読んでみることに。


きことわ

きことわ


記憶と夢について。

永遠子は夢をみる。
貴子は夢をみない。(『きことわ』p3)

「でも、私、夢をみたことがないから」
「夢をみないひとはいないのよ」
寝ている間、瞼は閉じている。眼球の外から視線ははじまるから瞼を閉じていたら夢はみられないと貴子は言った。
「忘れているだけできっとみてる」(『きことわ』p91)

忘れまい、としてどこかで春子を記憶にしばりつけている。生きているものの方が死者の足をひっぱっていた。それをやめてすっかり忘れてしまってよいのかもしれなかった。(『きことわ』p119)


当たり前だが、夢も記憶も忘れるものもあれば忘れないものもある。しかし忘れてしまった夢はなかったことではない。人は何もかも覚えていられないし、ずっと忘れまいという姿勢は不幸である。

銃夢』に「この世に無意味なことなんて何ひとつない。死んだ人間もひとりもいない」という言葉があって私は「みんな自分の中に生きている」と読みとっているが、この「生きている」とは忘れないこととイコールではない。少なくとも忘れまいという囚われの姿勢とは異なるはずだ。

だから忘れていくことが逃避ではなく前向きな選択にもなりえる。私たちが普段みているたくさんの夢を覚えていないのは、そういうことかもしれない。

人間はみた夢のことは忘れてべつの夢をみる。(『きことわ』p92)

  • おまけ

「ふたりともよく眠ってる」春子はきみょうな顔のまま、「よくみて」とふたりの間を指す。「どこ?」和雄が障子戸をさらに開けてふたりをのぞくと、廊下の白熱灯のひかりが背中合わせで眠る貴子と永遠子にあたる。光線の加減からか、ふたりの髪と髪とがひとつなぎの束としてみえた。ふたりの髪はともに肩を越すほどではあったが、背中合わせで眠る互いの髪と髪とは届きようのない距離だった。畳にのびた影かなにかの錯覚にすぎないのに、それがながながとした髪のように見える。その黒い束が貴子の髪から永遠子の髪へとつながり、どこからが影であるのか、どこからどこまでがふたりのそれぞれの毛髪出るのかがわからなくなっていた。(『きことわ』p129)

あと、とてもよい黒髪ロング百合小説でした。黒髪とは明記されてませんが、おそらく。