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ぼくの震災記録

8割方出来上っていたのを、しょーしきさんが書いたのを見て思い出した。

  • 震災初日

東日本大震災が起きたのは2011年3月11日14時46分と言われている。このときぼくがどこにいたかと言えばもちろん震度6が観測された居住地・仙台……ではなく、首都・東京にいた。就職活動的な事情だ。具体的にはその帰り、東京から仙台へ帰る高速バスの中だった。手には乗車直前に買ったエロエフマンガ・エロティクス・エフ)があった。東京から仙台までは高速バスで5時間30分ほどかかる。

バスは4列シートで、ぼくの席は真ん中の通路側だった。ぼくはエロエフを『青い花』から読む。あとは前から順に。地震はちょうど宮台真司×山本直樹の都条例対談を読んでいるときに起きた。

集中して読んでいたぼくは揺れに気付かなかったが、急に車内の空気が変わったことには気付いた。乗客がみんな窓の外を見て騒いでいる。ちょうど橋を通っていたバスが止まり、バスが、というかバスが通っている橋が揺れていた。

唖然とするぼくに隣の席の人(仮にジョーイとする)が「揺れてますね」と話しかけてきた。ぼくは初めてジョーイの顔をまともに見たように感じた。高速バスはかなり利用しているが、隣り合った人と会話するのは初めてだった。ジョーイはおそらく学生という年で、背はぼくより高かった。

幸いバスは倒れず誰もケガをしなかった。揺れが収まると車内ではケータイで情報を集め出す人が目立った。「どうやら東北で大きな地震があったらしい」という声が、前から後ろから聞こえてきた。その東北にこのバスは向かっている。はたして無事に戻れるのか不安になった。

バスの運転手氏は「東北で大きな地震があったようです。詳しいことは私にも分かりません。みなさん各自で情報収集して教えてください。ラジオを入れます(大意)」とアナウンスしラジオを付けた。ラジオを聞くのは久しぶりだった。

どうやらバスはこのまま仙台へ向かうらしい(おそらく運転手氏の判断)。慌てても仕方ないのでぼくはエロエフの続きを読み出した。身内や友人からメールが来たので「東京にいたので身は安全」とだけ返した。

途中、思い出してツイッターを見た。ぼくが仙台市民であることは知っている人は知っている。生存報告だけしておこうと思った。これは後で知ったが、どうやらメールは遅延していたためツイッターでの報告が一番早かったらしい(この時点で先ほど出したメールは届いていなかった)。リプライも終えたのでぼくは寝た。

2時間ほど寝て、起きると電話が鳴っていた。妹者からだった。ちょうどバスが停車したため電話に出た。どうやらメールが遅れているため返信が届いておらず、心配してかけてきたらしい。ぼくがずっと寝ていたので電話は何度もかかって来ており、残り電池量が危ぶまれた。電話はその辺りの事情を確認した後「電池やばいからもうかけてくるな」とだけ伝えて切った。この時点で残り電池は1つだった。

電池はその日中になくなった。そこでぼくの情報源は途絶えた。

就職活動的な事情でぼくは電話を必要していたためパーキングの公衆電話を探すことになったが、どれも通じずその日の電話は諦めた。

バスは高速を降り一般の路線を通って仙台に向かっていた。途中開いているコンビニでトイレを借り、食糧を調達する。トイレの列は長すぎて並ぶ間に棚の『どげせん』を読み終えてしまった。

途中のコンビニは停電していた。懐中電灯をもった店員が電卓で計算しレジに立っていた。「お互い大変ですね」というような短いやり取りをして、ソイジョイとお茶を買った。当たり前だが食べ物の類はかなり少なくなっていた。仙台までどれほどかかるか分からないが、先は確実に長くなる。食糧は必要だった。

途中の停車で降りる人もいた。おそらく近くの知人を頼るのだろう。ぼくにはその選択肢はなかったが、あっても降りなかったと思う。仙台に着けばなんとかなると思っていたし、企業側の就活対応が見えず戻らないといけないとも思っていた。

車内では電池式の携帯電話用充電器もまわっていたが、ぼくは充電したところで情報収集するつもりもないのでそのままにしておいた。

コンビニに止まるたび、今ここがどこなのかが気になった。まだ関東も抜け出していない。そのうち店も閉じているのが当たり前になり、開いているコンビニを探すのも一苦労になった。ぼくは再び寝ることにした。

  • 2日目

起きたのは午前8時半頃だったと思う。特にやることもなく日が変わる前には眠りに着いたので、時間的には充分寝たはずだ。当然バスはまだ走っていたが、なんと福島まで来ていた。もう東北地方まで来たかと思うと安心したが、窓からは壊れた家や店が並んで見えた。仙台は、自分の家はどうなっているのか。

到着が近いと分かった安心感から、再び近くの人と会話が始まった。隣のジョーイは帰省だった。タイミングの悪いことに東北の友人を訪ねて来たという人もいた。

車内にはなんとなく一体感が生まれ、乗車時とは空気が変わっていた。4列シートの高速バスではなく、修学旅行の貸切バスに近い空気だった。

ふとぼくはこれが3列シートのバスだったらどうだったろうと思った。4列シートは席が隣接して人との距離が近い。座席の独立した3列シートでは今ほど会話が起こらなかったのではと思った。まぁ、可能性の話だ。

到着は14時半だった。ちょうど24時間かけてバスは仙台まで辿り着いたことになる。

乗客はみんなそろって、また個別にも運転手氏に感謝の言葉を送った。24時間の運転は普通なら交代が必要のはずだが、彼はずっと一人で運転していた。無論その間寝ていない。

仙台に着いたぼくを待っていたのはしかし祝福ではなかった。不思議そうにバスを見る人たちに「24時間かけて東京から帰って来たんです」と一通り説明すると、「そうでしたか」と軽く労われ、その後で「かわいそうだけどせっかく来ても何もできないよ。電気もないし」というようなことを言われた。

市街は不思議な空気だった。大きな被害はないが、店は閉じており、人はぱらぱらいる。車はあまり走っていない。不自然に静かだった。路上販売を横目にまずは帰宅することにした。とりあえず荷物を置きたい。

家に着いて、まずは荷物を置いて周りの状況を確認することにした。公衆電話には長蛇の列が、スーパーの前にはさらに長蛇の列ができていた。物資が足りていないらしい。ぼくは並ぶのが嫌だったので近くの店でハートキャッチプリキュアスナックだけ買って帰ることにした。こんなものでも今は貴重な食料だ。別にほしかったわけではない。

家に帰っても電気はない。窓の採光と懐中電灯を活用して漫画を読んでいたが、しばらくでそれも無理となり寝た。21時台の就寝は何年かぶりだった。起きたのはいつも通り7時か8時だったように思う。

  • 3日目

起床して近くを歩きまわるが、まだ公衆電話は混んでいる。家にいても仕方がないので情報収集に当ても無く出かけることにした。

途中原付で移動する友人とエンカウントし合流。アーケードのコンセントが生きており、そこで充電できると聞いて街の方に出ることになった。

充電。1日ぶりにケータイが復活した。メールが20件ほど届いていた。サークルのメーリングで避難所情報などがまわっていた。そこで初めて知ったが、市内中心部にある後輩の家はもう電気が復活しているらしい。

公衆電話から企業に電話をし(本当はこの日仙台で面接がある予定だったが、案の定延期となっていた)後輩の家におじゃますることにした。リクナビ等ネットに接続する必要もあるし、いつまでもアーケードに突っ立って充電を待っているよりはよっぽどいい。

後輩の家にはけっこうな数が集まっていて、そこで皆だらだらと過ごしていた。そんなに危機感もなく、避難所に行けば友達増えるくらいの話をしていた。落ち着いたのでケータイからツイッターでまた生存報告をした。

夜になり家に帰ったら電気が復旧していた。ガスはまだで水風呂だったが、電気があれば困らないと少し余裕ができた。まともにツイッターに繋いではじめて色々と情報が流れていると知った。

  • その後

市街地は津波や大規模な損害は受けなかったが、はじめは電気ガスが止まったこと、以降は物資交通が止まったことが大きな被害だった。また大変だったのは店が開いていないこと。特にコンビニが開いていないのでコピーもできない荷も送れないが厳しかった。郵便局は早くに開いたため3日後必着のESも一応出したが、郵便物もいつ届くか分からないと局員の方に言われた。余談だがこのES出した企業は間違いなく間に合わなかっただろう第1タームで受理してくれて喜んだが圧迫面接で落とされたポイズン。

仙台東京間を直接つなぐルートが復活したのは最速で21日。JRの高速バスだった。それまで東京に出るには山形まで出て山形空港から、または新潟へ行って上越新幹線というルートだけで直通はなかった。それでも逃げようという人でたくさんで、久しぶりに会った友人に「お前まだ仙台にいたの?」と言われた。今思うと「お前を置いて逃げるわけないだろ!」「ここは俺に任せて先に行け!」の茶番をやるべきだった。

直通ルートがないとあまりに面倒くさいため仙台で生活していたが、物の足りない平常時より高いスーパーに長蛇の列で買い物する毎日が続き、物資はない週刊漫画誌が読めないで一時帰省を決意した。この頃には世論(ぼくの耳で聴く範囲の極々身近な人たちの意見)も「仙台にいても何もできない。少ない物資取り合うより食べ物ある地域に逃げられるやつは逃げた方がいい」という方向に傾いていた。確か25日かそれより後だったが、それでもバス予約はかなり混雑していた。

帰省先からも就活して最終で落とされたり最終で落とされたりしている内に仙台のアクセスが復旧。またも戻ることにした。内定はさらに遅かったがまあそれはまた別の話。

仙台に戻ったときには街はだいぶ落ち着いていた。店の営業時間が短くなったり多少物が足りていなかったりはあったが、もうスーパーに列ができるようなことはなかった。それからさらに時間が経つと、あのとき飢えを凌いだハートキャッチプリキュアスナックがスイートプリキュアスナックになっていたり、バスで読んだ次の号のエロエフが出ていたりして震災時のことを思い出し時間の流れを感じた。今はもうそういうのも過ぎた。

最近『南部高速道路』という短編小説を読んだ。パリ郊外の高速道路で何日も続く尋常でない渋滞が起こりドライバーたちは協力し合うが、ある日急に渋滞が解消して連帯していた人たちはバラバラになっていくという話だ。高速バス1日の体験や震災後しばらくの生活が重なり深く感じ入った。