『神のみぞ知るセカイ』と『この彼女はフィクションです。』

 近代麻雀漫画生活:四大週刊少年誌ドラフト会議を開催してみました

以前、四大週刊少年誌ドラフト会議という企画に参加しました。その際ぼくは雑誌全体のバランスを考えていたつもりでしたが、結果的にラブコメ枠が『神のみぞ知るセカイ』と『この彼女はフィクションです。』の二つになっていました。もちろんどっちも好きで入れたのですが、まぁ、パッと見すごいチョイスだなぁと。

神のみぞ知るセカイ 1 (少年サンデーコミックス)

神のみぞ知るセカイ 1 (少年サンデーコミックス)

この彼女はフィクションです。(1) (少年マガジンコミックス)

この彼女はフィクションです。(1) (少年マガジンコミックス)

そしてそんな両作品を比べる視点が過去にありました。


 Togetterまとめ - 神のみ、このカノ、バクマンに見る「理想」と「現実」の物語
 Togetterまとめ -『この彼女はフィクションです。』最終回を迎えて〜ユーリが選んだ理想


個人的にも『この彼女はフィクションです。』は今年最も集中して追っていた作品であり、『神のみぞ知るセカイ』も最近の展開の面白さからまた読み返していたところです。そういうわけでこの理想と現実の観点から自分なりに両作品をまとめてみることにしました。

主人公である桂馬は、逃避以前に現実を見てもいませんでした。ところがエルシィの登場により彼は強制的に現実と向き合わされます。とはいえ「ゲーム(理想)ばっかやってないで現実見ろよ」というお話ではありません。作者である若木先生の視点はゲームに優しい。桂馬は神と呼ばれるほどに得意なゲームの理論(経済学用語でない)をそのまま現実にも適用し成功を続けます。しかしその中でゲームにない現実の要素が壁になり、学び変化して行きます。特に今やっている「二周目」では今まで現実に向き合ってこなかったがために人の気持ちが分からず、簡単なミスを犯します。『神のみぞ知るセカイ』はそうやって桂馬が現実の中で悪戦苦闘し、折り合いをつけていく話だと思います。

若木先生自身も五巻の月夜と先生の話を「理想を求めると限界にぶつかる。それからどうするか?」というようにまとめていて、巻末ではこの巻の内容は最終話につながるかもと発言しています。ですので理想と現実という視点は『この彼女はフィクションです。』との比較の意味だけでなく、この作品のみに限定しても重要なポイントとなるはずです。すなわち「桂馬は現実の壁にぶつかってどうするか?」ということです。

主人公であるユーリは十年間ずっと理想の女の子・ミチルを描き続けていました。ある日そのミチルが彼の下に姿を現します。ところがユーリはミチルの現実化前からフーコ先輩が好きになっていました。そもそもミチルの存在は過去の現実逃避の象徴であり、ユーリはフーコ先輩との出会いによりその暗い過去から救われています。少なくともミチルが現れた瞬間、ユーリにとってミチルは不要な存在に思われました。

ところが物語の始め、確かに彼にとっていじめられ友達がいなかった現実からの逃避は不要となっていましたが、今度は現実逃避でミチルを創っていたことそれ自体が黒歴史化していました。そのミチルの登場により、彼はそのこととも向き合うことになり、それらがオープンにされた上で周りの人たちと交流を始めます。

ミチルは過去の自分の身勝手で生み出してしまったキャラクターで、そこにユーリは責任を感じています。プラスしてユーリは自分のことが好きだというミチルの想い(自分がそう仕向けた)に応えられないことに罪悪感があったためにミチルに対しては作者としての責任以上を感じていたのだと思います。

同時にミチルはユーリにとって理想の存在でもあります。理想が現実化したことでユーリは恋愛方面でも大いに悩まされることになります。その現実と理想のせめぎ合いは桂馬よりも直接的であり大きいです。

現実と理想という視点で最も問題になるだろう点はこの作品がすでに完結しており、最終的にユーリはミチルを選んでいることです。しかしこれを持ってユーリが理想を選んだと言うのは早計と考えます。最終的にユーリは現実と理想を秤にかけて理想を採ったのではなく、現実化したミチルを、もう現実逃避の象徴ではないミチルを採ったのだと思います。それはもう現実か理想かという二項対立を乗り越え、現実と向き合っているということです。


この彼女はフィクションです。』はこのようにまとまりました。では『神のみぞ知るセカイ』はどうなるのか?現実と理想というこの観点からも注目しています。