きっと何者にもなれないお前たちに告げる。『美味しいシャワーヘッド』を読むのだ!

朝日新聞デジタル:芥川賞・直木賞の候補作決まる


 舞城王太郎の『美味しいシャワーヘッド』が芥川賞にノミネートされている。


 えー!? って昨年は『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』(と同時上映の短編『巨神兵東京に現る』)の言語担当として活躍し、現在アニメも放送中の大人気作『ジョジョの奇妙な冒険』のノベライズ企画で書いた『JORGE JOESTAR』はAmazonのカスタマーレビューで賛否両論燃え上がり、ついにはウルトラジャンプ大暮維人(『天上天下』)と組んで新連載『バイオーグ・トリニティ』を始めた舞城王太郎がですか〜。


「美味しいシャワーヘッド」舞城王太郎 - 立ち読み|新潮|新潮社


 などと驚くことはなく『美味しいシャワーヘッド』もう読んでるんだけど再読していた。


新潮 2012年 08月号 [雑誌]

新潮 2012年 08月号 [雑誌]


 『美味しいシャワーヘッド』は作中のある特定の出来事ではなく俯瞰的に作中人物の人生を辿るという、過去作では2009年に同じ芥川賞にノミネートされた『ビッチマグネット』や『Good But Not Same』と似たタイプの作品である。この類の作品群には、物語化されない・うまくいかない人生をどう生きるか?という問題意識を感じられる。

 『美味しいシャワーヘッド』もまた、主人公の青年・小澤に起こった出来事よりは、彼の人生を俯瞰する構成となっている。故に彼の身に起こる一つ一つの出来事は断片的で、連続的な意味を持たない、しかしそれが物語化されていない人生ということでもある。

 小澤の身に起きた出来事だけでなく、小澤が遭遇した・また誰かから聞いた話も多く出てくる。爪楊枝を数えるおじいさん・ストーカー女に襲われた家族・テチョキワ・タイのウナギ呪いetcetc
 意味深に出てくる不思議な話の個々には意味がなく、みな他人事である。あるとき犬に襲われた小澤は、偶然それを見ていた者により作中の巨大ネット掲示板にスレ立てがされ、その一部始終を物語化される。が、それも事実からは大幅に改竄された内容であった。

 小澤がレインボーブリッジを歩いて渡るシーンがある。始めは鉄骨の上で戦う映画のアクションシーンを思い浮かべ楽しい小澤だったが、ふと寂寥を感じる。

 暗くなる空と広がる水面の色を眺めていて、ふと思うけど、他人の、それも架空の人物の、さらに空想の冒険はいろいろここで起こることがあっても、ここに立つこの僕には、何もないのだ。
 やるべきこともやりたいこともない。
舞城王太郎『美味しいシャワーヘッド』)


 人生は物語ではないという物語において舞城は言いたいのは「これがリアル」とか「現実はクソ」とかでなく、「これでいいのだ」ということだ。それは「ありのままの人生を受け容れる」に止まらない。うまくいかなかった想いや経験は蓄積され、例え言語化されていなくても自分の中にある。失敗したり悩んだり責められたりしながら、小澤はそう思うようになる。

 まだはっきりと意味は判らない。判らない、ということにしていないとも限らない。
 判らないということにしてしまう、いう僕が構造的に抱えている気持ちの仕組みについては、でも、判る。
 ずっと判っていたのだ。
 でももう判ってるのだ、と認めなくてはならない時期、年齢なのだ。人間関係も、僕の感性も、すべての持ち物が時とともに変化し続けていて、もう耐えきれなくなっているのだ、僕のそういうシステムに。
舞城王太郎『美味しいシャワーヘッド』)


 そんでもっとシャワーヘッドの話(たぶん自分の体験のような意味かな?)をするのだ、というところで幕を閉じる。


 やはり舞城はすごい。よく言われる文体の勢いがなくなってからもすごいし傑作長編『ディスコ探偵水曜日』以降もすごいすごい。昨年もサブカルチャーな活動を続けながら実験作的な『短篇五芒星』、「らしく」ない「普通の」恋愛小説『私はあなたの瞳の林檎』などなど文芸誌にも様々な作品を出している。
 その中には『NECK』のツイッター連載であったり『冥王星O』企画であったり、うまくいっていないように見えるものもあった。しかし舞城はそこからも何かを得て、書き続けているのであろう。小澤のように。

 『美味しいシャワーヘッド』が受賞ということになれば早い内に出版されるだろうし、既に月末には短編集『キミトピア』発売が決定しているから、きっと何者にもなれなくても舞城王太郎が読める。ぼくにとって自己啓発本が不要なのはきっと舞城読めばいいからなのだ。


キミトピア

キミトピア