今週の黒ロン:『かぐや姫の物語』

 『かぐや姫の物語』。観終わって「こんなに『かぐや姫』のことを知らなかったのだなぁ」としみじみ。



 巷では原作通りの映画と言われること間違いなしですが、ではではこの原作ってなんだ?という話になるとまた微妙になってきます。
 『かぐや姫の物語』と『竹取物語』はあらすじだけ取り出せばほぼ同じものとなります。
 でもその印象はかなり異なるはずです。なぜなら『竹取物語』はここまでかぐや姫に寄っていないから。

 私を含め大抵の人が抱く『竹取物語』イメージは、子ども用の絵本などで簡単なあらすじを知って、間を脳内補完したものです。間を、かぐや姫を主人公とした物語に補完しているはずです。
 『竹取物語』ではかぐや姫は、五人の貴公子など周りの人の愚かさや滑稽な振る舞いを引き出す、もっと舞台装置っぽい印象を受けます。実際『竹取物語』の尺の多くは五人の貴公子パートに割かれているとも聞きますし。
 なので、みんなが思ってるほど『竹取物語』って『かぐや姫の物語』じゃない。逆に『かぐや姫の物語』が「原作通り」と何ら新しい要素がなかったかのように自然に受け入れられてしまうのなら、その時点で映画は成功とも言えます。
 ということで、映画『かぐや姫の物語』は「かぐや姫」を中心に再構成した『竹取物語』です。『竹取物語』をかぐや姫視点に構成するというのがすでに現代的というか。かぐや姫って本来竹から生まれてきて急に大きくなったり終盤に突然「実はわたし月からやって来てもうすぐ帰らなくちゃいけないの」と言い出したりするキャラクターですし。


 かぐや姫メインにしたことで、人工的なニセモノの生を否定しもっと自然な生を求めるストーリーがきれいにまとまっています。「高貴な姫君は人間じゃない」と言うかぐや姫には思わず「社会人は人間じゃない」と普段言い続けている私も頷きました。
 あとこれが今のエンターテイメントなら最後かぐや姫が月の人たちを説得したりなんなりでハッピーエンディングがあるのですが、そうはならなくて結局かぐや姫は記憶を失い月へ帰ることになるのも説教臭くない、あくまでお話っぽくて距離感いいですね。

 また『かぐや姫の物語』は人工的なニセモノの生を否定しもっと自然な生を求めるストーリーの裏にもうひとつ、美しく生まれてしまったが故の不幸というストーリーも抱えています。そこが黒ロンとの相性抜群です。
 かぐや姫が自由に生きる事の出来なくなった原因は、皮肉なことに彼女の美しさにあります。美しい故に高貴な姫君として生きる道を強いられ、生きるてごたえがない。かぐや姫がこんなに美しくなければ、もしかしてこんな悲劇にはならなかったかもしれません。
 時を経て美しさを増し、しかし窮屈になり、でもその中に開放的な生がある。『かぐや姫の物語』はかぐや姫という一人の黒ロンの成長過程を映すストーリー、そして姫の罪と罰など、キャラクターを深堀りしたことで、『かぐや姫の物語』は見事な黒ロン映画となっています。
 逆境に負けない意志の強さ、喜怒哀楽の表情と、後半になるほど増える憂いの顔。それが水墨画のような絵で表されるのも良い。表情だけでなく、予告映像の印象的な一場面。髪を乱して力いっぱい走り抜くかぐや姫からは力強い生のエネルギーが伝わってきました。あんなにがむしゃらにまっすぐ走る黒ロンをスクルーンで観ることができて、本当によかった。