『君の名は。』の腑に落ちなさについて

 『君の名は。』。なんとも腑に落ちない映画だった。観ている途中、美しさに心を奪われるシーンはいくつもあって(自然や高層ビルや星空、女子高生や女子大生の描写がそれだ)、あったが、やはり妙な違和感が残って、腑に落ちない。
 それは設定矛盾を突きたいわけではなく、個人の好みの問題とも違うはずで、もっと物語の中核に違和感がある。ただ観ている最中は「この話にそんな感想を抱くのは無粋だろう」と自分を諌めるような良い瞬間も何度もあって、そのどちらも正解で、なんか言い訳がましくなってきたんでとにかく書きます。



 『君の名は。』は田舎町に住む女子高生・宮水三葉が、自分の家や育った町に対する不満を抱き、「来世は東京のイケメン男子にしてください」と叫ぶところから始まる。
 そして不思議なことに、彼女の願いは叶ってしまう。東京の都心に暮らす男子高校生・立花瀧と入れ替わることによって――――。

 ここまでの流れは大々的に宣伝されているところであり、ぼくも知っていた。
 この後を、ぼくはこの不思議な体験を経て2人の男女は少し大人になる。別の人生を体験することで視野が広がり、今の生活を受け容れたり、あるいは飛び出したりするという、ジュブナイルとしてわりと有りそうな流れを予想していた。

 ところが2人の入れ替わりは突如止まり、2人もぼくも予期せぬ方向へ物語は展開する。入れ替わりの奥に大きな事件が隠れていて、瀧は三葉を助けるために必死に考え、行動する。

 ここで気になるのは、瀧の行動原理だ。瀧はいつの間に三葉のことをそこまで想うようになったのか、という点もあるが、それ以前に瀧がどういうやつなのかいまいちはっきりしない。三葉に比べて瀧側の物語はあまりに希薄ではないだろうか。

 父子家庭なのか母親の姿が見えず、ただそこにコンプレックスがあるようには思えず、建築や美術系に興味があるようだが、そのきっかけは分からず、バイト先の先輩が好きなようだが、その理由もはっきり明かされない。そして自分の人生に物語がないという空虚な不満、物語も、瀧には見えない。
 「瀧が三葉を助ける」というパートに来て、2人の入れ替わりという対等関係が、「瀧が三葉を助けてあげる」ように変わって見えたのが、どうも引っかかった。

 先輩とのデートの件など、三葉が瀧をサポートしてるシーンはそれまであっただけに、事件の比重が大きすぎて、奥寺先輩とのデート以降、2人が入れ替わりを経て互いに成長する(だろう)話から、瀧が三葉を助ける話に変わってしまったように感じた。

 ここで、事件において瀧の側も何かしら影響を受け、それが将来に繋がっていくなどがあれば、まだ2人の対等関係が維持されたはずだが、そういったことを描くにもやはり瀧側の物語が希薄であったように思う。

 そして、そもそも入れ替わりのきっかけとなった三葉の環境に対する不満はどうなったのか。三葉の家族問題は果たして解決されたのか? そこに三葉はどう影響したのか? それには入れ替わりの、また瀧の影響があったのか?
 父親に直談判するシーンにその答えがあったはずだが、肝心の部分が省略されてしまい、はっきりしない。
 同じように三葉が抱えていた田舎への不満と東京への漠然とした憧れも、大事件により有耶無耶に流されてしまう。

 瀧側の物語は始まりが見えず、ただ三葉を助けるという終わりは見えたが、三葉の物語は逆に環境不満という始まりはあって、それがどう解決されたのかが終わりが見えない。このあたりにどうもぼくの腑に落ちなさがある。

 最後に、この映画のタイトルが『君の名は。』であることについて。タイトルの話をしようと思う。
 極端な話、個人の識別キーなら「君の顔」でも「君のこと」でも「君のマイナンバー」でもいいわけで、そこであえて名を選んだのは、「名を呼ぶ」という行為に重要性を見出したからだろう。その通り、劇中には繰り返し互いに名を呼ぶシーンがあり、おそらく製作者の狙い通り、ぼくにも互いに名を呼びすれ違う2人が美しく映るシーンがいくつもあった。

 ただ同時に「名」と聞いてぼくが連想するのは姓と名のセットで、姓はイエのことで、だから三葉の家族問題がぼやけたまま、瀧の方は見えないまま、互いが名前を呼ぶシーンが来るのはいささか軽いように感じた。家族を飛び出し「姓」を捨てて「個人」として生きる、そういった選択があって名前だけを呼ぶならわかるが、そのへんが省略されてただ互いに名前だけを呼ぶことに違和感があって、瀧が三葉が相手の名前を呼ぶたびに、ぼくは腑に落ちないのだった。